4.通りゃんせの真実 童話民謡の怖い話と怪談

  • はてなブックマークに追加

 

■通りゃんせ歌詞

通りゃんせ 通りゃんせ

ここはどこの 細道じゃ

天神さまの 細道じゃ

ちっと通して 下しゃんせ

御用のないもの 通しゃせぬ

この子の七つの お祝いに

お札を納めに まいります

行きはよいよい 帰りはこわい

こわいながらも

通りゃんせ 通りゃんせ

 

怖い話としての解説

日本で、馴染み深い 通りゃんせ

まさに、道路を渡る時

信号機から、流れてくるこの音楽

多くの人は、子供が、どこかに行く歌だと思っているようですが

子供を怖がるせるためだったり

親が子供に聞かせる歌だったこともあり

そのように解釈されていったのだと思います。

 

しかし、歌詞を見ていくと

この歌は、明らかに親が歌っており

親もお参りに行っている歌です。

 

なぜなら、

『この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。』

自分の事を『この子』とはいません。

 

子供がお参りしていると

誤って解釈しまったの原因は

『七つの御祝いに、御札を納めに参ります。』

重要な前の『この子』の部分をなくして解釈しているので

子供がお参りに行く話や

子供が歌っている歌と解釈されたのだと思います。

 

実際に、多くの説は、この部分で

誤った解釈なってしまっていることが

この後の解釈の検証からも、何度となく確認できます。

 

ということから、これは、子を持った親の歌と

解釈していくことが、正しい解釈だと推測しています。

 

天神様の細道

古く、神は、天に近い山にいる

だから、日本の信仰文化は、多くは、山を対象にしています。

富士山は、まさにその象徴的なものです。

 

だから、山の頂上に続く細い道

それ示すように 

◆天(山)の神
◆神 → ネ+申

ネ → 人がお辞儀する姿
申 → 礼拝 礼拝 祈祷 を申す

山の神に礼拝し、
自分のお願いを申すといえる

 

また、その『細い道』とは

山道であり、山奥を表現していると思われます。

 

その裏付けとなる歌詞と解釈は、

歌詞の後半にある

こわい → 疲れた という方言であった場合もで

疲れる程の山奥という意味でも捉えられること

 

怖いという意味で私の見つけた別の解釈でも

どちらでも山奥を意味していると言えます。

 

用がない者は、通れいない

ちっと通して 下しゃんせ

御用のないもの 通しゃせぬ

 

今までわかっている情報を付け足して

この道は、この場所に適した要がない者は、通れない

そんな場所である。

 

今までわかっている情報を付け足すと

山奥の細い道で

この場所に適した要がない者は、通れない

昼間でも怖い 夜は、怖い場所

 

となり、この要がない者は、通れないという言葉

この歌詞に隠された謎を紐解く

重要な意味になります。

 

長寿を願った親の歌

この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。

良い意味で考えれば

7つになった時に

7という神秘的な数字 終わらない年まで

ためた、守りの御札を納めることで

長寿を願うという意味になる。

 

そういった事や七五三の考えで

昔は、7歳になる前に亡くなる子供が多かった為、

7歳までは、天神様に守護される

だから、生きは、天神様の守護があり

帰りには、天神様の守護がなくなるから、怖い

しかし、この考えだと、親ではなく 子供が参る歌になり

歌詞の『この子』と辻褄(つじつま)が合わなくなる

 

なかには、子供の幸せを単純に願った歌としたい人もいると思います。

確かに、最近は、注目を集める為に、なんでもするという風潮の中から

元には、怖い話がないものを

怖い話に作り変えたりされているものもあるので注意しています。

 

しかし、慣れ親しむ約束の歌の指切りげんまんの歌でさ

時代背景や当事者達の想いをしれば

悲しい歌だから、語り継がれないとは、言えません。

 

もっとわかりやすい例ををいれば

花いちもんめの歌は、我が子が買われる歌ですが

今では、子どもたちが遊び歌として、語り継がれています。

 

長寿を願い呪いを納める歌?

長寿を願い呪いを納める歌としての可能性もある

村の守り神とする神であれば

村の近くにあるはずだ

 

しかし、この歌は、山の神を意味し

そして、細い道 山奥を意味している。

村の守り神を、そんな山奥に祀ることは、考えにくく

それを意味するように、帰りは怖いとしている。

(山奥 まはた 疲れる程遠い)

 

もし、村で、何かしらの事件があり

その後に、祟りや呪いを封じる為に

祀る(まつる)祠でも山奥にあるとするのであれば

もっとも納得できる解釈になり

以下のようになる。

 

この村は、ある事件を境に呪われた

呪いを沈める為に、

山奥に呪いの根源とともに祠として祀った(まつ)

 

末代まで呪うという言葉があるように

その呪い、祟りは、子供が対象となるため

7つになった時に、終わらない数字の意味として

長寿を願う為に、御札を納めにいくという話

 

実際に祝うという文字が

呪を 礼拝 によって封じ込める

そんな意味のある言葉もある。

呪 → 口 + 兄 
祝 → ネ + 兄

言葉で呪うように → 口
礼拝で、呪いを沈める → ネ

口をネに変えている事が
それを意味している。

 

相手を呪いに行く話

御祝いというと聞こえがいいが

本当にそうなのだろうか?

そう疑問に思う言葉が、この歌詞の一行に感じ取れる

 

この子が

7つ(生死の逆転)→死んだ為

お祝→呪いをしに行く

 

そう考えた方が、この話は、理解しやすい

なぜなら、7とは、生死や逆転を意味していてることや

(学校の七不思議で說明している)

 

そして、7つのお祝いは、

死のお祝い=呪いを意味しており

それを納めに行く

 

そんな場所ゆえに、

用がないと通れない

用が終われば、用ないのに通るから帰りは、怖い

山奥だから、疲れる

または、人を呪わば穴二つという意味から

憑かれるといった意味など

複数の意味で考えても一致してくる。

 

菅原道真を天神様

大災害が起きるたびに

菅原道真の祟りとして恐れられ、

菅原道真を天神様として信仰する「天神信仰」があります。

 

ここにも今となっては、

神として祀られているものが

怨霊を鎮める為に、祀って、神格化した一例があり

 

天神の意味を山奥の祠としないで

そのまま天神とするなら、

考えられるのは、この天神なのではないでしょうか

 

また、天神から来ているのか、

神隠しと言われている背景があり

帰りが怖いことが、神隠しとされており

第三者的に誘拐されるなどの解釈や

子供を神の生け贄にするという儀式なども噂されているが

 

そうなると、歌の冒頭の祝にも一致しなかったり

そもそも、その設定になると

子供が参拝していることになるが、

それも『この子の七つの お祝いに』で否定される。

 

そうなると、最大の謎は、子供の生死について

子供の生死が、どうなっているのかが、

この歌の謎を紐解く  最後のカギと言えます。

 

子供の生死について

生きているとすると

まず、子供が生きている歌なのか?

そう考えると、この歌の曲調や歌詞から

考えにくいと思います。

もし、この曲調や歌詞で、長寿を願うのであれば、

これらの歌詞の内容を否定する

この続きの歌詞が、存在するはずです。

 

しかし、この通りゃんせは、あまりにも噂が広がりすぎて

2番 3番の歌が、無数にある状態で

特に、3番に関しては、この時点でいるのですが

すべて、現代になって、完全に創作されたものです。

 

2番関しては、この歌が諸説生まれた原因だと言えます。

元々は、1番しかなく

この1番に様々な想いが込められたがゆえに

その続きを多くの人が、自分の想いに乗せた歌い語り継いだというのが

真実で、

それが、この歌が、諸説(色々)生まれた原因かと思います。

 

その象徴的なのが、1939年(昭和14年)に作成された

このレコードの存在と歌詞です。

 

多くの人が知っている2番3番の歌詞とも違います。

だから、歌い手の意図によって、2番3番は、作られてきた

それゆえに、色々な説が生まれたと言えます。

 

子供が亡くなっているなら

また、子供が亡くなった歌とするなら

どうして亡くなったのかというのが問題になります。

 

実際に、そういた噂というのは、多く

もっとも多いのは、子殺しの歌として噂されていますが

私は、その表現については、とても肯定できません。

 

というのも、

この歌で、子殺しと表現すると

あたかも、親が子供を子殺した話に聞こえるからです。

 

そんな親が、こんな歌を歌うのか?

という疑問や

それを歌い語り継ぐ人がいるのか?

疑問になります。

 

何より、昔は、農作物を育てるのに

労働力として、人手が絶対に必要だったのです。

 

そんな単純なものではないことは、

今の說明からも理解できるはずです。

 

こういった事から考えられるのは、

親の想いとは、不本意に亡くなっているということです。

 

では、どんな親なのか

考えていくと、

まず、作詞が無名ということで時代が古く

身分も低いことが考えられます。

農民 もっと貧しい人達であったかもしれません。

 

そういった事から、時代背景を考えれば

噂されている、

子供を狙った殺人(子供で斬り試される)といった対象になりやすい

身分の高い人間であれば、必ず犯人を探しだされるので

この噂も、そう考えていけば、信憑性がない訳ではありません。

 

またもうひとつ考えられるのは、

こういった時代の貧困は、

食料不足による餓死に繋がっていくことが多い

大飢饉(食料危機)が起きた時に歌われた可能性も高いと思えます。

 

それは、食料危機によって

自分の意思に反して口減らししなければいけない

自分を口減らしすれば、子供は生きていけない

だから、子供を口減らしするしかない

そんな想いとすれば

 

『御用のないもの 通しゃせぬ』

理由がないと通行できない関所

 

『行きはよいよい 帰りは恐い』

行きには、子供がいたのに

帰りは、子供がいないことを

関所で、問い詰められないか怖い

そういった解釈ができます。

 

どういった死があるにせよ

私が解釈するのは、親の想いとは反した子供の死だと思われます。

それは、たとえ口減らしであったとしても

(それを単純に子殺しと表現するは、本当にやめてほしい。)

 

通りゃんせの最終解釈

歌というのは、時代背景を表したり

その時代の不満などが歌われることもあり

そういった事を意味する話が、三国志にも登場したします。

 

その事と日本の文化として

人の気持を想いやる

人の痛みを共有する

 

それと、親・母親という気持を考えれば

子供の死というのは、

親の死とは、全く違うものです。

 

親の死というのは、自然の摂理として

受けいられるものの

子供の死は、自然の摂理の流れではない

それゆえに、親は、子供を想い続ける

 

実際に、日本全国に心霊スポットだけではなく

そういった場所に、

親が、慰霊碑だったり、何かを建設したりと

同じような事が起きないようにしたりとしている。

 

だから、子供の幸せを願った歌でも

その歌の背景には、悲しい出来事があり

その歌が作られていることもあります。

 

そういった事を踏まえていくと

私が思うに、生きている歌も本当で

亡くなっている歌も本当だと思います。

 

正確にいえば、生が3割 死が7割ぐらいなのではないでしょうか

 

以下のことが、最終的な結論ですが

時代背景と母親達の気持を感じながら歌を聞くと

曲調と歌詞が一致するのではないでしょうか?

 

通りゃんせ 歌詞の意味すること

身分制度による貧困と食糧危機が起きる自体

身分が引くすぎるがゆえに、生きる権利すら保証されず

殺されることがあっても、守られることはない

貧しすぎるが故に、自分の子供を口減することさえある

そんな親の気持 もっとも貧しい層の、母親の気持

そして、それを見ていた農民の女性達

そんな想いで歌われ

そんな想いが語り継がれた歌

 

その想いとは

(悲しみ・子供への想い・恨みもあるかもしれない)

(だから、こそ広く歌い語り継がれたきた)

(説が増えたのは、前に說明した1番しかなかったから)