15賽の河原 童話民謡の怖い話と怪談

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賽の河原とは

死んだ子供が三途の河原で

父母供養のために石を積んで塔を作ると

(自分の供養の為に)

鬼がそれを壊し

永遠に成仏できないという話

 

賽の河原の解釈は、

単純には、親不孝としていますが

子供が自ら死ぬというのは、

そんなに割合として多くないことを考慮すれば

 

本人の意思と反して

不本意に亡くなっている子供を罰を与えるかのように

賽の河原に留めているのは、なぜなのか?

 

それを考えていくと

以前の三途の川の解釈をすると

とても簡単に理解していくことができます。

 

そもそも三途の川にある賽の河原

ここが罪を裁く場所ではなく

生前の汚れを落としたり

実は、慈悲に溢れる場所とすれば

 

石を積み上げる行為を止めるのは、

子供一人で、三途の川を渡ろうとすれば

三界に落ちるがゆえに

親が来るまで、留めている行為

 

親が来れば

子供一人では、積み上げれないものも

親と子(協力)であれば、簡単に積み上げれて

また、三界に落ちる危険性もない

また、石を積み上げる行為が意味するのは、

親が変わり建てることで渡れるとしているが

親がしっかり供養するようにという意味合いもあるのではないでしょうか

 

自分の意思に反して亡くなる子供もいるのだから

子供を罰しているのであれば、とても理不尽であり

慈悲とは、かけ離れたものと言えます。

 

やはり、そう考えていけば

二人の鬼である観音菩薩の化身がいるのにも関わらず

何もしないことは、

これが罰ではないことを意味していると言えます。

 

そう解釈すれば、親より先に死んだすべての子供が

賽の河原に留めていることもわかります。

仮に、自ら命を断った子供がいたとしても

それが、単純に子供の自己責任とはいえないからです。

そういった意味でも、その親は、賽の河原と三途の川で

人間性を試されるのではないでしょうか

 

懲罰的思考に偏るのは、なぜなのか?

という質問がありましたので、ここに記載しておくと

懲罰的思考というのは、

軍国主義の軍事教育のなごりがいまだに残っていることが

影響しているのではないかと思っています。

 

なにより、教育現場で、

いまだに暴力行為と体罰をいまだに区別できず

暴力行為を体罰として容認して

いまだに議論しているからです。

 

これらの議論は、結果を見ればわかりやすく

今の時代、ヤンキーと言われる人の割合は、ほとんどいないのです。

実際に、全国あちこちにいた暴走族も、

ほとんどいなくなっている現状がそれを裏付けており

若者の犯罪発生率は、ずっと低下傾向で

逆に、年齢が高いほど、犯罪発生数ではなく

犯罪発生率が増加傾向なのです。

 

これは、暴力行為を容認にしてきたがゆえに

自分が納得できないことは、暴力で解決しても良いと

教育で大人がやってきた世代の結果です。

 

それでも、わからない人には、単純な質問しましょう。

大人同士 社会でやっては、いけないことを

子供に教えるのか?

 

大人の社会で、納得できないことがあり

体罰という名目で、暴力をふるったら、どうなりますか?

体罰の容認とは、それなのです。

 

確かに反論意見で、言葉が通じない相手がいると思います。

だから、刑法と民法があり

また少年法がある訳です(この法の是非は別)

<真剣に考えれば、日本の法律に欠陥があることや>

<個人の自衛権に問題があることも気づくでしょう>

 

また、この同様の解釈を持てば、イジメ問題も

イジメなのか、刑事事件なのかと区別でき

今より問題の数は、間違いなく減ると思います。

 

深刻な取り返しのつかないイジメ事件が発生しているのは、

まさに、刑事事件であるという認識が、

当事者にも 関係者にも

私達の多くにもないからだと気づくはずです。