14三途の川 童話民謡の怖い話と怪談

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三途の川とは

死後7日目に渡るという、あの世にある川

その橋では、生前の行ないによって

1.善人は   → 橋を渡り

2.軽い罪人は → 浅瀬を渡る

3.重い罪人は、→ 流れの速い深みを渡る

 

『地蔵菩薩発心因縁十王経』

中国でできた偽経が原典

偽経とは
仏陀釈尊が説いたお経ではなく
今でわかりやすく言えば、小説やマンガにして
わかりやすく庶民に理解してもらいやすくしたもの

 

平安時代から六文銭が必要になる

平安時代から三途の川を

自分で渡る話から

渡し舟で渡る話に変わり

その渡し賃に、六文銭が必要となり

六文銭というお布施が必要になった。

 

六文銭が必要な理由は、仏教の六道輪廻が理由

 

なぜ、三途の川と呼ばれるのか?

三途の川とは

三筋川からできている川を意味していて

川の先から落ちる先に

地獄界・餓鬼界・畜生界となっており

 

生前の行いで、そこに落ちやすい場所から

川を渡るようにさせられるから

 

生前の行い罪の重さ

三途の川のほとりにある

衣領樹(えりょうじゅ)という木の下で

 

二人の鬼がおり

鬼姥=奪衣婆(だつえば)

鬼翁=懸衣翁(けんえおう)

 

その鬼が、生前の行いの罪の重さは

身にまとっている物が重くなるので

二人の鬼が、木にかけると生前の罪の重さがわかるとされている。

 

しかし、本当の所は、

この二人の鬼は、観音菩薩の化身で、

罪の重さを図っているのではなく

最後の慈悲を持って、

重い物を身にまとって川を渡れば、確実に三界に落ちるので

三界に落ちないように手助けしているだけだった。

(地獄界・餓鬼界・畜生界)

 

三途の川で思うこと

よく、地位・名誉・権力・などの欲とされていますが

この話は、そんな単純なものではなく

もっと深い意味があると言えるのではないでしょうか

 

多くの人は、三途の川を罪の重さを裁く場所だと思っていますが

この話、深く追求していくと、そうではないのです。

 

橋を渡られる人

身にまとっている物が軽くないと

橋が壊れてしまう為に

橋を渡れる人を決めている

 

川を渡らせる行為

川を渡らせる行為は、生前の汚れを落とす為

 

三界に落ちる人達

よく、地位・名誉・権力・などの欲とされていますが

この話は、そんな単純なものではなく

総合的な人間性、そのものを試され

裁かれているのではく、自分の行いで自らを裁く

因果応報を説いたもの言えます。

(說明したもの)

 

三界に落ちていく例を3つ出せば

 

地獄界

ある人が、これから地獄界に落ちていきます。

その人は、とても賢かったけれど、他人

自他共に人を信用することができず

また、賢いがゆえに、

生前の行いを自分自身が、もっとも理解していた。

 

そして、二人の鬼が慈悲で

川を渡れるようにしている姿を見て

罪の重さを測っていると勘違いし

すべてを身にまとったまま、川を渡ろうとする。

それがゆえに、その重さで、汚れも落ちぬまま

最初の最も深い川 流れの早い川で

溺れ流され地獄界に落ちていく

 

そして、生前の汚れを

上から落ちてくる、汚れた水で洗い流す為

いつまで経っても汚れは、落ちない 無限地獄

 

そして、話が通じいないという前に、話すらしないので

地獄界の拷問でわからせるしかないといったもの

 

餓鬼界・畜生界

餓鬼界・畜生界に落ちるものは

二人の鬼の話を聞くものの、

執着しているもの 固執しているものがあり

(心の自由がない)

 

途中で、捨てきれずそのまま川を渡ろとして、

餓鬼界に落ちるもの

 

また、隠し持つことで落ちて

畜生界に落ちていくもの

 

 

三途の川をまとめていて思うこと

今まで、怖い話として、語り継がれた三途の川

調べていると逆に、とても良い話のように思えます。

 

三界に落ちていく人達に、共通しているのは、

表面的な理解をしているということなのではないでしょうか

 

よく、言われる 地位・名誉・権力

といった欲だけはないと言っているのは、理由があります。

これらの欲というのは、一般庶民には、ほぼ無関係なのです。

 

仏教そのものはじまりが

王族の身分を捨て、悟りを開いた釈迦

それは、民衆の心の救済とも言える側面があります。

 

そういったことを踏まえれば

地位・名誉・権力・強欲で、地獄に落ちるなら

そもそも、、一般庶民は、地獄に落ちることすら

考える必要がないと言えます。

 

では、なぜ一般庶民が、三界に落ちていくのか

例えば、人の見た目や地位(権力・名誉)だけを見て

相手の本質(中身)を見ているのか?

そういった事を説いてる話なのではないでしょうか

 

また、そのような考え方をすれば

そもそも、死後の話だけではなく 生前の話もしていると言えます。

 

それというのも

こういった事というのは、

生前でも 日常的に起きていることと

なんら変わりがないと思いませんか?

 

私達が、人の話を聞くときに

人の見た目や地位(権力・名誉)だけで判断して

相手の話の本質(中身)を聞いてなかったりと

 

そう考えれば

地獄に落ちている人というのは、

血で血を洗うような行為をしている人

 

だから、今日も(生前も)

明日も(死後も)

その繰り返しになっている(無限地獄)

そういった解釈をすることもできます。

 

また、このような表現になっているのは、

何度も翻訳されたことや

その当時の表現方法であったり

昔は、紙がとても貴重だったということを考えれば

生と死が表裏 一体であるということ

そういった教えを一枚の絵と話として

まとめたという可能性もあるのではないでしょうか

 

人が信用できないものには
 人が信用できないことで起きる苦しみ

人と会話ができないものには
 人と会話できないことで起きるくるみ

人の話の意味を理解できないものには
 人の話の意味を理解できないで起きる苦しみ

私には、こういった現実世界での因果応報

相関図が書かれているように思えました。